第2部 文人往来

(2007/05/20)

(3)地下水脈
才能と妖怪は死なず 永遠、わき出る創作力
まねのできない水木ワールドは若手漫画家らの目標。だが本人は「水木サンみたいな才能は、もう出てこないんじゃないかなぁ」と、うそぶく=東京都調布市布田1、水木プロダクション(撮影・中西大二)

 「水木荘のころは毎日が締め切りでした。一巻十枚で原稿料は二百円ぽっち。その支払いすら滞る。それでも〈水木サン〉は踏ん張った。人間食べなきゃいけないし、絵が好きだったからね」

 日本漫画界の巨星水木しげる(85)は戦後の神戸で、紙芝居作家から出発した。一九四九年、兵庫区水木通にあったアパートを買い取り、「水木荘」と命名。その経営と画業で身を立てる決意をした。

 奇妙な住人ばかり集まった建物の名は、そのままペンネームとなり、自らの一人称にもなった。本名の武良(むら)を覚えてもらえず、〈水木サン〉と呼ばれたからでもある。

 後に“飯の種”となる「鬼太郎」の誕生は五四年、西宮市今津に移ってから。墓場で生まれた隻眼の少年が活躍する奇怪な物語は大人気を取るが、紙芝居という娯楽自体が衰退期にきていた。五七年に上京。食うや食わずの貸本漫画家生活に入る。「実際、餓死した仲間もいる。水木サンの食べるための戦争は、まだ続いていたのです」

 宝塚育ちの手塚治虫(故人)とは好対照だ。四十歳を過ぎて水木がやっと売れ始めたころ、六歳年下の手塚はすでに大家として君臨していた。

 「手塚さんがコンクリート舗装の大きな道を闊歩(かっぽ)してきたとすれば、私は細く曲がりくねった悪路をつまずきながら歩いてきた」と著書にも言う。だが、読者に応えて懸命に王座を守った手塚が命を縮めたのに対し、水木は今も好きな妖怪漫画を描き続ける。

 古里は鳥取県境港(さかいみなと)市。家の手伝いに来ていた「のんのんばあ」の妖怪話が創作の原点になったことは有名だが、十代の終わりを過ごした丹波・篠山の地も思い出深い。高等小学校を出て就職したが、生来のマイペース故に長続きせず。父の転勤先の篠山から大阪の美術学校に通うことになったのだ。しかし…。

 「学校をサボって毎日、野山を歩き回った。虫や動物を観察し、大地の精を感じた。とにかく絵ばかり描いていた。他のことはやらないんだから仕方がない。『好き』の力を信じなくちゃあ」

 現在、実写映画「ゲゲゲの鬼太郎」が公開中。テレビアニメも第五作となる新シリーズの放送が今春始まった。水木の妖怪世界が今、幾度目かのブームを迎えている。

 「電気がつき夜も明るくなって、妖怪には生きにくい時代。人間の方が怖くなったしね。でも妖怪は死なない。どこからかわき上がって『描け、描け』と迫ってくるんですよ。ハハハ」

 世界的作家を生み出してきた兵庫には良質で豊かな地下水脈がある。その流れは地表で光を浴びるものより、複雑で、濃密で、面白い。(敬称略)

同人誌という自由の「海」で
東京に負けない表現活動ができた
「長く続いただけ。懐かしさも恥ずかしさもある」。「文学雑誌」創刊号を手に、来し方を振り返る杉山平一さん=宝塚市中筋山手1の自宅(撮影・後藤剛)

 藤沢桓夫(たけお)、長沖一(まこと)、石浜恒夫、織田(おだ)作之助、井上靖(やすし)、小野十三郎(とおざぶろう)、庄野潤三…。一九四六年十二月の創刊号には、そうそうたる書き手が名を連ねている。関西で最古参の同人誌「文学雑誌」。発行所は宝塚市中筋山手、これも関西で恐らく最年長となる現役詩人杉山平一(へいいち)(92)の家だ。

 当初は同人制ではなく、大阪・三島書房が発行。表紙は吉原治良(じろう)(一九〇五―七二年)らによるしゃれたデザインだった。

 「作家だけじゃなく、営利抜きで支える出版社やスポンサー、優れたデザイナーがそろっていた。戦後間もない関西で、東京に負けない表現活動ができたのだ」

 そう語る杉山も、冒頭の面々と切磋琢磨(せっさたくま)した創刊以来の中心メンバー。詩人であり映画評論家としても知られるが、同誌では小説やエッセーを主に書く。「小説でなく散文詩だと批判もされたが、それでいい。時として小説の中に詩があり、詩人も小説を求める」。文学史の近現代をまたぎ、分野をも横断する希有(けう)な作家である。

 「文学雑誌」に次いで、四七年には富士正晴(一三―八七年)が「VIKING」を創刊。島尾敏雄(一七―八六年)、久坂(くさか)葉子(三一―五二年)ら、初期は神戸勢が主力だった。さらに、ここから分かれた「くろおぺす」(五三年創刊、後の「たうろす」)、尼崎の「AMAZON」(六二年)など有力誌が相次ぎ生まれる。これらは時に著名作家を世に送るが、それ以上に無名ながら熱心な書き手、読み手を多く育て、神戸・阪神間に文芸の土壌を養ってきた功績が大きい。

 今春創設された「神戸エルマール文学賞」は、まさに神戸周辺の同人誌パワーを物語る。同人誌上の作品を対象として、同人誌作家自身が運営する全国でも例のない文学賞。「VIKING」の島京子(80)を代表に、同誌の竹内和夫(73)、「文学雑誌」の大塚滋(しげる)(79)らが選考委員を務める。エルマールはスペイン語で「海」。秋には初の受賞者がここから船出する。

 「出版界が利潤追求に堕して久しいが、同人誌は書きたいことを自由に書ける最後の砦(とりで)。良き伝統のある神戸から、力のある書き手を発掘したい」。島は期待を込める。

 同賞の原型になっているのが「小島輝正(こじま・てるまさ)文学賞」。関西の同人誌研究と振興に尽くした小島輝正(二〇―八七年)の遺徳をたたえた賞だ。自ら「くろおぺす」などで創作もしたが、元はアラゴンやサルトルを紹介したフランス文学者だった。

 小島のいた神戸大は四九年に新制大学が始まった当初から、常に近現代国文学の専門家を擁してきた。「大学でわざわざ小説の読み方を教えるべきなのか。当初は、そんな批判もあったらしい」。近代文学の成立期を論ずる同大文学部教授林原純生(りんばら・すみお)(59)は話す。

 草創期を担ったのは、明治文学史研究の猪野(いの)謙二(一三―九七年)。これを継いだ相馬庸郎(つねお)(80)は退官後「AMAZON」に参加し、老境の真実を書く作家として注目されている。このほか専門は近世だが、三島由紀夫や谷崎潤一郎の研究でも名高い野口武彦(69)もいた。

 林原は初代猪野に学んだ神大国文の生え抜き。「村上春樹や宮本輝(てる)らの現代作家、活発な同人誌活動など研究材料も身近。何より東京や京都、大阪にもない自由にやれる空気がある」。創作と研究が手を携えての成果は、第二、第三世代へと確実に手渡されている。

 静かな、しかし確かな水脈は漫画の世界にも通じている。マニアの間に根強い人気を持つ「ガロ系」と呼ばれる作家たちである。

 六四年創刊の青年向け漫画誌「ガロ」。折しも人気の出始めた水木しげるも、ここを主戦場として描きに描いた。伊丹在住の“特殊漫画家”川崎ゆきお(56)は高校時代、水木作品と出合って漫画家を志す。

 「手塚治虫や石ノ森章太郎は“良い子の漫画”。下描きの線が残っているような、粗雑ながら力強い水木の絵は衝撃だった。手塚らのいた『COM』でなく、何としても『ガロ』から出発したかった」

 望み通り川崎は、二十歳のとき「ガロ」からデビュー。代表作「猟奇王」シリーズなどで、百花繚乱(りょうらん)の七〇年代漫画界に独特の存在感を示す。九〇年代になるといち早く、パソコンによる自作のネット配信を始めた。現在は「デジタル紙芝居」とも呼ぶべき新たな表現を試みている。

 「手塚漫画の後継者は多く出たが『第二の水木』はいない。正統派や売れ筋は継承できても、突出した個性は一代限り。だからあこがれ、追い求めるのだろう」

 受け継がれることのない個性。が、その精髄に迫ろうとする新たな個性が続き、流れをつくる。深く、絶え間なく―。(敬称略)

(文化生活部・平松正子)

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