第5部 食と農の達人たち

(2007/08/05)

(1)料理人の夢
本物は時代を超えて 100年続く味、後世に
伝統メニューを復活させた森光昭さん。「同じタマネギでも昔とは味が違うので苦労した」=神戸市中央区波止場町、神戸メリケンパークオリエンタルホテル(撮影・浦田晃之介)

 美食家で知られる文豪・谷崎潤一郎が愛したレストランが神戸にある。

 小説「細雪(ささめゆき)」に登場する「旧オリエンタルホテル」と、谷崎らが名付けた「レストラン ハイウエイ」。

 時代を超え、料理人たちがその伝統の味を守る。

 「昔から外国人や財界人が集まる社交場だった。舌の肥えた客が味をつくってきた」

 旧オリエンタルホテル出身で、神戸メリケンパークオリエンタルホテル特別顧問の森光昭(62)は懐かしむ。

 旧オリエンタルは神戸開港から間もない一八七〇年、旧居留地に開業。当時から料理が評判で、英国人作家キプリングが「本物の料理を食べられる」と記したほど。一九九五年の阪神・淡路大震災で全壊して閉鎖されるまで、神戸の洋食文化を先導した。

 森は高度成長期の六四年に入社。レストランの料理長などを務めた。「時間をかけて作ったデミグラなどのソース類、カレーやビーフシチューといった煮込み料理が名物だった。レシピなんかなく、自分の目と舌で覚えた」

 六〇年代初めまで、調理場では英語とフランス語しか使えず、メニューや食材を丸暗記した。失敗すれば怒声が飛び、平手で殴られた。厳しい修業が料理人を育て上げた。

 神戸・三宮でレストラン「クックナカタ」を経営する中田博一(ひろかず)(65)、元町にある「帝武陣(てむじん)」の店主山田美津弘(みつひろ)(63)らも旧オリエンタルの料理長などを経て独立。自分の店で昔ながらの味を伝える。

 しかし、旧オリエンタルは経営主体が転々とし、震災後に歴史の幕を閉じた。料理もいったんは途絶えたが、昨年、神戸メリケンパークオリエンタルホテルで、カレーなど昔のメニューがよみがえった。「先輩から受け継がれながら百年は続いてきた。その味を後世に残したい」。森が先頭に立ち、後輩に継承する。

 ハイウエイは、三二年の創業。谷崎が、友人だった初代店主と、文人仲間が集まるサロンとして開いた。店名は、谷崎と画家の小出楢重(こいで・ならしげ)、米ハリウッドで国際的俳優として活躍した上山草人(かみやま・そうじん)が付けた。

 現在は三代目の村上實(みのる)(78)、娘の恵子(47)とその夫で四代目の志恒(しこう)(38)が店を守る。恵子は「お客さんに支えられてここまで続けられた」。

 ハイウエイも港との縁が深い。二代目が日本郵船で客船のコックをしていたことからシンプルな味で素材を生かす“郵船流”を受け継ぐ。晩年、体調を崩した谷崎がハイウエイから取り寄せていたというコンソメスープも、そのままの味だ。

 「今は食が乱れているが、丁寧に作った本物の味を伝えたい」。志恒は力を込めた。

 偽装表示、安全性不安、食料危機…。「食」が大きく揺らいでいる。その中で「食」を大切に守り育て、魅力を伝える人たちをたどる。(敬称略)

理想は高く 神戸から発信
洋食文化の伝統刻んだ新たなページ
神戸フランス料理研究会。左から西久保さん、小久江さん、松村さん、谷アさん=神戸市垂水区東舞子町18、舞子ビラ神戸(撮影・斎藤雅志)

 谷崎潤一郎も愛した神戸の洋食文化。その伝統に、一人の料理人が新たなページを加えた。

 神戸・北野にあったフランス料理店「ジャン・ムーラン」の元オーナーシェフ美木剛(みきごう)(60)。第二次大戦時の仏レジスタンス運動を先導した英雄の名を看板に掲げた通り、まさに“反骨の人”だ。

 団塊の世代。一九七〇年安保闘争に身を投じ、大学を中退。「背水の陣」で料理界へ。調理師学校を経て、仏リヨンで三年間修業した。二十六歳。料理人としては遅いスタートだった。

 「本場の三つ星レストランを再現したくて一番新しい手法を試みた」と、七七年に開業した。魚介類中心の素材を生かした、あっさりとした料理法。「ヌーベル・キュイジーヌ」(新しい料理)と呼ばれ、七〇年代にフランス料理界に広がった。日本ではまだ珍しかったが、阪神間の富裕層を中心に支持された。

 「従来の濃厚な西洋料理とは隔絶した味。神戸には、それを受け入れる恵まれた環境があった」

 天然の高級食材を使った独創的な料理、最高級の器、質の高いインテリアとサービス…。八九年には北野の一軒家に店を移し、「最高の非日常を演出する」レストランの理想を実現させた。バブル景気やグルメ志向という時代の追い風も受け、全国からファンを集めた。作家の平岩弓枝や神戸出身の舞台美術家妹尾河童(せのうかっぱ)、タレントの阿川佐和子ら多くの著名人らも訪れ、美木は駆け上ってきた山の頂に立った。

 だが二〇〇一年、突然、店を閉めた。「やりたいことは十分やってきた。ピークのまま辞めたかった」と美木流の美学を貫いた。

 「料理は個性が百パーセント出る。志の高低で具現化する料理は決まる」。美木の哲学は多くの弟子が引き継ぐ。北野周辺には“御三家”といわれる「シェ・ローズ」の佐藤義明(44)、「ペルージュ」の栗岡敦(あつし)(42)、「ル・フェドラ」の梅原崇人志(たかとし)(39)が店を構える。三人は約十年間、同じ厨房(ちゅうぼう)に立った仲間で、ライバルでもある。

 神戸経済は依然厳しく、人々の嗜好(しこう)も変化する。だが「良いものを出し続けるだけ。ジャン・ムーランの味を残したい」と栗岡。梅原も「本格的なレストランが少なくなったが、レベルの高さを保ち続ける」。佐藤も誓う。「美木さんからもらったDNAを次代に引き継ぐのが僕らの使命」と。

 素材を生かす―。新しいフランス料理の潮流は確実に広がった。

 今月二日、神戸を代表するシェフらでつくる「神戸フランス料理研究会」が、十周年になる「シェフとの集い」を開いた。テーマは「神戸洋食今昔物語」。先端の食に加え、ミートパイやカレーなど約五十種もの伝統の味を再現した。

 一九九四年の設立。「神戸は洋食が最も早く生まれた街の一つ。料理人の技術向上や情報発信のためにぜひ必要」と、初代会長を務めたレストラン「シェ・サダ」の西久保節文(さだふみ)(58)は動機を振り返る。西久保は神戸・北野の老舗「北野クラブ」の料理長だった父・實(みのる)(90)の教えを受け、東京のホテルなどでも腕を磨いた。八八年、新神戸オリエンタル(現クラウンプラザ神戸)の料理長に就いたころから、組織づくりを呼び掛けた。

 発足には、あの美木がかかわり、「コム・シノワ」の荘司索(しょうじさく)(53)、「神戸精養軒」の井上康司(こうじ)(66)らも名を連ねた。井上は、西洋料理の老舗「上野精養軒」(東京)で技を習得、のれん分けとして七三年に開業。後に二代目の研究会長となった。

 次いで会長を務めたのは神戸ポートピアホテル副総料理長の小久江(おぐえ)次郎(59)。七二年に渡仏し、大阪のホテルを経て、八一年に神戸ポートピアホテルの「アラン・シャペル」に入った。フランスで最高峰とされるシェフの名を冠した店で直伝の技を守る。

 現在、メンバーは五十人。事務局長の谷ア政巳・神戸国際調理製菓専門学校主任教授(56)を中心に、有機野菜やスローフードなど時代が求める新しい食材や調理法の研修会を重ねる。

 副会長のホテルモントレフーズ総料理長田中健介(48)は「新調理」と呼ばれる新しい技術の第一人者だ。真空パックを使って肉のうま味を逃がさずに最適の食感に仕上げる調理法を確立した。

 この日の「集い」で四代目会長となった舞子ビラ神戸の総料理長松村智明(ともあき)(43)は「地産地消や食の安全など私たちの伝えたいことを明確にし、生産者・消費者と一緒に食を考えたい」と抱負を語る。

 神戸から東京へ。この春、二人の料理人が動いた。

 東京・六本木に誕生した巨大な街「ミッドタウン」で、最も人気を集めるのは神戸のシェフ、山下春幸(はるゆき)(38)だ。山下は、元町で「兵庫の食材」にこだわる店を開いていたが、「神戸の食の魅力を」との強い誘いを受けて進出した。

 ミッドタウンの冊子には、山下と神戸ビーフや丹波の有機米、灘の地酒などがフロントページを飾る。「兵庫の食は、質と多彩さで日本一だと自信を深めた。日本の中心からどんどん発信しますよ」

 神戸北野ホテル総支配人・総料理長の山口浩(47)も、東京・丸の内の新丸ビルに出店した。

 神戸のフランス三つ星レストラン日本店総料理長を務めた後、阪神・淡路大震災で閉鎖した同ホテルを二〇〇〇年、料理主体の宿「オーベルジュ」として再建した。

 焼きたてのパン、自家製ジャムなどパリの上品な味覚を再現した「世界一の朝食」が評判を呼び、今も高い稼働率を維持する。レストラン、カフェを合わせて計十五店になったが、「世界でここにしかないオンリーワンをつくる」。

 「本物の味」を求めて―。多彩な兵庫の食材が集まる神戸から、料理人の志が新しい洋食文化を発信する。(敬称略)

(経済部・村上早百合、辻本一好)

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