第16部 ものづくりの魂

(2008/07/27)

(4)祭りを支える
屋台飾る浮き物刺繍 伝統の上に進化続け
刺繍作品を手に「伝統の上に、進化を続けたい」と話す梶内純治さん=淡路市志筑(撮影・山口 登)

 南あわじ市、東神代(じんだい)八幡神社の大祭を彩る九基の「太鼓台」。籠池地区の自慢は、四本柱を囲む豪華絢爛(けんらん)な水引幕だ。二十センチもせり出した御殿の屋根、十七センチの肉厚昇り竜。浮き物と呼ばれる立体刺繍(ししゅう)は「金糸の彫刻」の名もある。

 作者は淡路市志筑の縫い師梶内近一(ちかいち)(一八九六―一九八九年)。一九一八年、四国から移り、浮き物の技法を確立した。以来、淡路では競うように近一に刺繍を依頼し、水引幕は独特の発展を遂げる。

 屋根に三枚、五枚、七枚…と布団を重ねた太鼓台は、瀬戸内一円に見られる独特の山車。だが呼称は、布団太鼓(大阪)、だんじり(淡路)、屋台(東播磨)と多彩だ。

 近一は徳島県三好市に生まれた。八歳の時、父母を相次ぎ亡くし、十一歳で香川県内の刺繍師匠に弟子入りした。幼い日に見た太鼓台の刺繍幕の美しさに魅せられた。

 二十二歳で独立し、祭りの盛んな淡路に渡る。当時、大阪の職人が幅を利かせていた中、祭りを愛する男たちの意気に訴えようと、「変化のあるもの」の模索を重ねた。その結果が「浮き物刺繍」である。同じ試みは以前からあったが、独自の技法による映え方と力強さが画期的だった。

 近一が創業した店は現在、大工や塗装職人をそろえ、太鼓台やだんじりを一貫制作できる数少ない工房として、神戸・東灘のだんじりや姫路の屋台などを含め、西日本一円から注文を集める。刺繍の技は、子の嘉蔵(かぞう)(90)、孫の純治(じゅんじ)(58)に引き継がれた。

 現社長の純治は、晩年の近一に技術を学んだ。針の上げ下ろしという基本動作から始め、浮き物の手法を体で覚えた。「早く、正確に」が口癖で、ペースが落ちると「手が休んどる」と、しかられた。

 刺繍一筋に生きた近一は九十歳を超えても現場に立ち、厳しく指導した。常々「職人は死ぬまで勉強や」と、新たな模索を続けた。純治は「お客さんに喜ばれてなんぼ。それが祖父や父の原点だったから、要望をとことん聞いて、細部まで仕上げていく」と話す。

 太鼓台の新調は一年がかりである。納品後、最初の祭りに必ず顔を出す純治は「皆さんが喜ぶ姿を見るのがうれしい。町の活性化に役立てたと思う」と、ほほ笑む。

 「地域に良い職人がいるかどうかが祭りの発展を左右する。職人が腕を磨くことで、それが特長になっていく。祭りを残すために支え、協力することに誇りを感じる」

 純治の子、博史(ひろし)(27)も刺繍の下積みを重ね、いずれは四代目を継ぐ。純治は「常に新しさを追い求めてきたからこそ、梶内の伝統がある。その意気込みを次代に伝えていきたい」と語る。(敬称略)

「まちの宝」 豪華絢爛競う
各分野の職人が最高追い求めて
「屋台にも建築のルールがある」と福田喜次さん。本場で生きる大工のこだわりがのぞく=姫路市木場(撮影・岡本好太郎)

 祭りといえば播州。多くの地区に「宝」がある。豪華絢爛(けんらん)な屋台は播州人のよりどころだ。神輿(みこし)屋根を載せた屋台が主流で、彫刻や錺(かざり)金具、水引幕などの派手さを競う。

 その代表格が姫路市白浜町、松原八幡神社の秋季例大祭「灘のけんか祭り」。毎年、十万人以上が祭り絵巻に酔いしれる。魅せる祭りは屋台に独特な進化を生んだ。

 旧灘七カ村の一つ、木場は本宮の渡御で先頭を切る。その誉れ高い屋台は十三年前、大工福田喜次(よしつぐ)(56)が手掛けた。「木場は屋台発祥の地。下手なもんはでけん」

 初めての挑戦だった。屋根は船のへさきを裏返したような曲線を描く水押し造り。自在のカーブと精巧な組み木は手作業のたまものだ。注文に応じ、屋根を五センチ高くした。重心のバランスに悩み、建築の基本を忠実に生かした。

 「格好良く見える屋根の高さは播州だけのもの。だが、事故でもあったら五割は大工の責任」

 大工だった父親は五歳の時、亡くなった。高卒後、叔父に弟子入りし、会社を再興。屋台づくりの声が掛かったのは、そんな時だった。

 以来、幾つかの屋台を手掛けた。「祭りを知らんと味が出ん」。練り方や場所を把握して取り掛かる。依頼に対する責任がそうさせる。

 播州では、完成後一年は漆を塗らず、白木のまま繰り出す。職人たちの力を結集する屋台で、大工の仕事が最も光る瞬間だ。半面、人々の批評を受け、「ものづくりの怖さ」を実感する時でもある。

 「大工の道にゴールはない。作品だけがすべて。次世代に残す言葉のないメッセージやな」

 作業場には、かつて約四十年間、祭りを彩った木場の屋台がある。父親が遺(のこ)した伝言に耳を傾ける。

 白木で乾燥させた屋台は、漆黒を施して完成する。塗師(ぬし)砂川(すながわ)弘征(ひろゆき)(66)は半世紀、伝統の技を守り続けてきた。屋根にしっとりとした黒光りを出すには、八十もの工程を要する。その間約四カ月。

 漆は湿気と空気で硬化し、紫外線や乾燥に弱い。屋外で練る屋台は悪条件だが、丁寧に塗り重ねることで耐久性を持たせている。

 屋台屋根は、漆と木の引き粉、飯粒を練った糊(のり)で、白木の継ぎ目を補強。下地をならして麻布をかぶせ、堅地を数十回塗り重ねる。

 仕上げは「蝋色(ろいろ)磨き」。手のひらで三度、一面を磨き込み、鏡のような輝きを出す。「手に勝るものはない。うちにしかできない」と自負する大きな手は、日ごろから湯に漬け、柔らかさを保ってきた。

 創業は江戸元禄(げんろく)期。十六代目の祖父が一九三三年、仏壇の技術を生かし、屋台の塗箔(ぬりはく)を始めた。砂川は十七歳で父に弟子入りした。

 今、息子の隆(35)が、傍らで仕事に打ち込む。弟子として十四年目。塗料が発達しても昔ながらの手法を引き継ぐ。天然素材の輝きを知っているからだ。「本物の違いを精いっぱい伝えたい」。若い十九代目の心意気が垣間見えた。

 富山県南砺(なんと)市。故郷・姫路の屋台にあこがれ、木彫師になった青年がいる。同市を拠点に活動する大木光(ひかる)(35)。「灘のけんか祭り」の本場、妻鹿(めが)の新調屋台を彩る正隅(しょうすみ)の制作に取り組む。

 中学卒業後、同県の伝統芸能・井波(いなみ)彫刻の伝承者に師事した。二十一歳で独立したが「のみが使える程度」。岸和田のだんじりを仲間と手掛け、自信をつけた。

 出身地の英賀(あが)東から依頼を受けたのは二〇〇三年。うれしさに手が震えた。露盤(ろばん)や正隅を仕上げ、屋根下の狭間(さま)には、播州では見られない「船弁慶」を題材に選んだ。

 「まちの宝。次世代に残しても恥ずかしくないものを作りたかった」。手を入れる個所がなくなるまで徹底的に自分を追い込んだ。完成後、作業場で一人涙した。

 「屋台は、各分野の職人が最高を求めて携わる。だから必死になる」と大木。姫路周辺では、熟練の技を持つ木彫師もひしめき合う。若手も近年、台頭してきた。

 「伝統を受け継ぎ、未来につながるアイデアを模索したい」。屋台文化に新たな系譜が芽吹く。

 より華やかな屋台の追求は、播州特有の金具細工の技法をはぐくんだ。「うっとり彫り」。薄い一枚の地金から、迫力ある竜や獅子を浮き彫りにする。ボリュームがありながら軽く、豪華さも備える。

 錺(かざり)金具師竹内博之(42)=太子町=は今年「現代の名工」の父親から店を引き継いだ。第一人者から技術を盗み、「死ぬまで一人前はない」と仕込まれた。

 適度に温めた松やにの上に銅板を置き、千種もの鏨(たがね)を駆使し、打ち出していく。力の入れ具合で伸び、薄さ一ミリに満たない板が硬さを増す。「地金は生きている」と竹内。一瞬のミスも許されない。

 職人としての流儀がある。依頼主のこだわりに耳を傾け、より近いものに再現していく。「同じものは一つとしてない。目指すは世界にただ一つの金具」

 今年もまた、男衆が血をたぎらせる季節が巡ってくる。技の粋を集めた結晶は華麗に、そして豪快に晴れの日を演出する。(敬称略)

(社会部・森本尚樹、姫路支社・井関 徹)
=第16部おわり=

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