樺崎寺跡の発掘調査
 

 樺崎寺跡の発掘調査は昭和59年、法界寺跡第1次発掘調査として始まりました。当初は遺跡の範囲や性格を確認するための調査を行ってきました。平成13年に国史跡となってからは記念物保存修理事業として整備の資料を得るための調査を行っています。
 これまでの調査では谷の中央を南北に流れる樺崎川の西側に浄土庭園を中心とした主要伽藍が配置され、その北側と川を挟んで東側に寺で生活するための施設や敷石広場などが確認されました。主要伽藍であるお堂は柱の基礎に石を置いた礎石建物ですが、生活するための建物は地面に穴を掘って柱を据えた掘立柱建物です。
樺崎寺跡遺構配置図
建物1
足利氏御廟と推定される建物跡
建物3
多宝塔と推定される建物跡

出土品
3つのつぼは骨壷として
利用されたものです
 
 八幡山の東に広がる大きな池は浄土庭園の中心となる遺構です。現在も残る八幡池から八幡宮の参道まで南北約150m、東西約70mあります。池は大きく4つの時期に分けられます。1期は創建から鎌倉時代、2期は鎌倉から南北朝時代、3期は南北朝から江戸時代、4期は江戸から明治時代です。平成14年度の調査ではさらに細かい修築の跡が確認されました。
 池のほぼ中央には周囲に大きな石を組んだ中島があり、池の岸は小石や砂などで化粧されています。西の岸近くからは岩島も確認されています。
 また、池にたまっている泥の中からは木製品がたくさん出土しています。泥が水分を含んで、真空パックされた状態で保存されてきたものです。特に注目されるのが柿経(こけらきょう)です。ヒノキの板を長さ20cmくらい、幅1cmくらいの大きさに薄くけずり、表と裏に「法華経」(ほけきょう)というお経を写したものです。おそらく願い事や儀式のときに池に沈めたものです。かわらけという素焼きの小皿もたくさん出土しています。これも儀式などのときに池に投げ入れたものです。

中島が出土したようす


園池西岸で確認された岩島 池の中から出土した柿経

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