第4部 「医」をめぐる旅

(2007/07/15)

(3)言葉に託す
医療への疑問原稿に 絶望でなく希望伝え
柳原和子さん(右)と後藤正治さん。互いに作家として認め合う存在だ=神戸市中央区(撮影・大山伸一郎)

 母と同じ年齢で、同じがんになる。そして、医療のすべてを記録する。

 ノンフィクション作家の柳原(やなぎはら)和子(57)=京都市在住=は、母親をがんで亡くした二十歳のとき、そう誓いを立てた。冷たく見限った医療に不信と怒りを覚えたためだ。

 その「誓い」は現実となり、母親と同じ四十七歳で、がんと診断された。病名も、母親と同じ「卵巣がん」だった。

 「心が病を誘い込んだ」

 そう受け止めた柳原は、自身の闘病をありのままに公表し、世に問うことを決意する。渾身(こんしん)の執筆が始まった。

 柳原は東京の生まれだ。関西には十二年前に移り住んだ。神戸とは、その前から不思議な糸で結ばれていた。

 一つは、医療ミスで家族を亡くし裁判を起こした神戸の主婦長尾クニ子(故人)との縁である。

 知人の紹介で長尾の医療裁判記録「娘からの宿題」を編集したのが、当時東京にいた柳原だった。関西に移ってから親交はさらに深まり、柳原は年上の長尾を「母親」と慕い、長尾は柳原を「娘」と呼んだ。

 もう一人、関西で柳原を支える存在は、同じノンフィクション作家の後藤正治(まさはる)(60)=京都府八幡市在住=だ。

 「五年生存率は50%」。医師からそう告げられた柳原に、後藤は「原稿を残せ」と促した。心臓移植など数多くの医療取材を手掛けた先輩作家の言葉が背中を押した。

 その後藤は、今春開校した神戸夙川学院大学教授として教壇に立つ。柳原と神戸を結ぶ縁に新たな糸が加わった。

 柳原は、独自の闘病で長期間生存するがん患者を訪ね歩き、医療への疑問を専門家にぶつけた。「治すことを目的にした現代医療は、治せない患者には無力なのか」と。

 六百ページもの大著「がん患者学」を、作家の大先輩、柳田邦男は「“がん生存者白書”とも言うべき重みと迫力がある」と評価する。

 柳原自身のがんも、手術と抗がん剤が功を奏し、いったん体内から消えた。それからの二年間は、玄米菜食などの自然療法を徹底し、治療で傷ついた心身を癒やした。

 だが、がんは六年目に再発する。柳原は現在、肝転移したがんを高周波電流のラジオ波で焼く治療を続ける。

 患者として最善の治療を求め、医師との対話を重ねる。医療への信頼と不信を行き来した心の旅路を経て、柳原は記す。「がんはわたし自身との闘いだった」(「百万回の永訣(えいけつ)」)と。

 「やすらかに死にたい。あわよくば、……治りたい」

 かつて、生と死に揺れる心境をこう吐露したこともある柳原。今は作家として一つの思いを口にする。「私の言葉は希望の見えるものにしたい。絶望は書きたくない」

 言葉の力を誰より信じるが故の誓いである。(敬称略)

患者と医師の理想的関係へ
最良の治療へ、変わり始めた意識
神戸朝日病院の金守良院長、安藤健治副院長、金啓二薬剤部長(右から)=神戸市長田区(撮影・大山伸一郎)

 柳原和子と後藤正治は、共に気鋭のノンフィクション作家として、医療をテーマにした作品を数多く発表してきた。

 柳原は「生身」のがん闘病を克明につづることで、がん医療の現実を浮き彫りにする。柳原にとって、医療は社会の課題である以上に、自分自身の切実な問題だ。

 それに対し、後藤は一人の観察者として、医の最前線に挑む医師たちに光を当てる。

 日本最初の心臓移植となった札幌医大の「和田移植」が日本の臓器移植に落とす“影”を検証した「空白の軌跡」で賞を受け、生体肝移植など移植外科を追った「甦(よみがえ)る鼓動」で、日本医療の挑戦を写し取った。そこには、命を救うため心血を注ぐ「プロ」への敬意の目線がある。

 対照的ともいえる立場の二人が、神戸で語り合った。

 そもそもの出会いは、柳原が後藤に“共演”を持ち掛けたときだった。がん闘病記を書き始めた柳原は、医療側の視点からの原稿も必要と考え、後藤に同時並行の取材・執筆を依頼した。

 「作品は作家独自の視点が作り出す」と、後藤は辞退したが、折に触れて柳原にエールを送り始めた。

 患者は医療に最善を期待する。だが治療困難ながんは、手を施すごとに選択肢が減っていく。「医療への期待が大きいほど、裏切られた怒りは激しい」と柳原。その怒りが「がん患者学」を書き上げる力となった。

 しかし、十年に及ぶ闘病で考え方は徐々に変化する。医療には限界がある。だが一方で、真摯(しんし)に患者を支えようとする医師たちがいる。かつては巨大に見えた医療が、今は悩みを抱えた集団と映る。

 「不完全な医師と不完全な患者が一対一で向き合う。いつの間にか、医療以前の問題に戻ってきた気がするの」と柳原。

 「私は、医師に逃げないでと訴え続けた。後藤さんは、逃げない医師たちの姿を書いたんだよね」

 そう語る柳原に後藤が応じる。

 「医師を鍛えるのは結局、患者だと思う。その患者を成長させる医師がいれば、両者にはいい関係が生まれるんじゃないかな」

 最先端に挑む医療の歩みは、同時に手の届かない壁を知る歴史でもあった、と後藤は考える。

 「それでも懸命に生きる人がいる。その存在に励まされる」

 後藤が語る言葉は、友人・柳原和子への賛辞でもある。

 柳原と神戸を結ぶ「もう一つの糸」は、神戸朝日病院(神戸市長田区)とのつながりだ。

 薬剤部長の金(キム)啓(ケ)二(イ)(46)が神戸新聞で柳原の記事を読み、講演を依頼したのがきっかけだった。

 同病院では、金(キム)守(ス)良(リャン)院長(58)らを先頭に、患者の気持ちを理解するための研修を続けており、何度か柳原を招き話を聞いた。

 柳原は、この病院で検診を受けるようになった。再発を発見したのは、副院長の安藤健治(40)だ。

 「医療現場には患者さんの思いを学ぶ場が必要」。安藤は、柳原との再度の語らいを待望する。

 抗がん剤治療の研究で日本の第一人者とされる京都大教授の福島雅典(まさのり)(58)は、京都大病院で再発後の柳原を治療した。

 今は神戸・ポートアイランドの先端医療振興財団臨床研究情報センターで、米国立がんセンターのデータベースを日本語のネットに公開する事業にも取り組む。

 「がん医療は、最初にきちんと標準治療を受けることが重要。患者さんが言いたいことを我慢したり黙ったりしては駄目。自分で情報を集めて医師の意見を問い続けた柳原さんを見習うべきです」

 手術や抗がん剤など多くの治療を受けた柳原だが、現在は、肝臓がんをラジオ波で焼き切る治療で全国の先頭を走る近畿大学教授の工藤正俊(53)に治療を託す。工藤は神戸市立中央市民病院に長く勤務し、兵庫県との関係は深い。

 聞きたいことは聞くが、医師を一方的に責めず、やる気にさせる。そんな柳原を「患者上手」と工藤は評価する。「むしろ問題は医師側の過剰なプライド。若い医師には感情的にならず、自分の人間性を磨けと言っている」

 研修医時代から柳原と交流を続ける京都大医学部産婦人科助教の松村謙臣(のりおみ)(36)は神戸生まれで、県立尼崎病院や公立豊岡病院に勤務し、何度も柳原を診察してきた。

 一流医師の意見を求めて、全国各地を訪ね、多くの選択肢を提示された柳原を「特別な患者」とする見方がある。だが松村は、きっぱり否定する。

 「彼女が特別であってはならない。本来、どの患者さんにも最良の選択肢が示されるべきです。それができないのは、医療の怠慢。医師が一生懸命になれば、期待に応えることは可能なはずだ」

  患者・柳原和子が投じた一石は、少しずつだが確実に、医療者の意識を変えつつある。(敬称略)

(編集委員・三上喜美男)

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