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今夜の番組チェック
『因果鉄道の旅』 根本敬(KKベストセラーズ・1993年)
- 無聊を慰めるべく、座右・枕頭に置き、手放せない一冊。
- 幼少時から今に至るまでの『因果者』達との、『豊漫』で『濃密』なる数々の邂逅ぶりを『因果鉄道の旅』に見立てて、『無駄話』スタイルで垂れ流す。
- 私達は、常に快適・快速の旅を志向し続けるわけではなく、その道程において時として『無駄』や『寄り道』に浸りたがる。
- そこには、例えば、『民宿』とは名ばかりのとてつもなく不潔な陋屋で膝を抱える一夜があり、みやげ物屋にずらり居並ぶ極彩色のペナントや孫の手、巨大鉛筆等々に辟易しつつ喜びを覚える緩慢な午後のひとときがあるのだ。
- この本に登場する九州男児「内田」が、リウマチ持ちの食堂のおばさんを追跡し、国道に転がる多量の猫の死体を見ながら群馬の山中へ早朝車を走らせるシーンはどうだ。勝新太郎邸を訪れ、勝新ワールドに『越境』し、『勝新は違法だけど正しい』と改めて悟るに至るくだりはどうだ。
- これらの場面が我々の琴線に触れるのは、とりも直さずそこに『旅』を感じとるからである。『無駄』だが、『豊漫』で『因果』な旅を。
『人生解毒波止場』 根本敬(洋泉社・1995年)
- 高級住宅街の中のゴミの城に住む老婆、頭の中の電波と戦う喫茶店のママ、銀座で個展を開くホームレス・・・。因果系宇宙の旅人・根本敬の航海日誌。
- あとがきの末尾の、「くだらないと思えることほどこの世の真理に近いのである。なぜなら、人の世のほとんどは元来くだらないものだからである」というのは至言だ。
- くだらないものをくだらないものとして、ありのままに認め、受け容れる。そうすることによって、日頃我々をガンジガラメにしようとする「正義」とか「良識」とかいう奴から自由になれ、「解毒」されるのである。
『悪趣味の本』 別冊宝島編集部(宝島社文庫・2000年)
- 最近書店に山積みになっている、「別冊宝島」から「宝島社文庫」へのリイシューものの一つ。文庫になって、版型が小さく図版が少なくなった分、電車の中などで読む際の気恥ずかしさが低減。
- 佐川一政、小人プロレス、犬鍋・・・と、ツボを押さえたアイテムが次から次へと展開。
- 本書のタイトルは一般にも分かりやすい『悪趣味』という語を使っているが、内容的には『因果者』ワールドという方が、その道(どんな道だ?)の練達の士には通りがいいのではないか。
- やっぱり一番面白かったのは、巻頭を飾る「蛭子能収インタビュー」by根本敬。これをじっくり読みたいがためだけに本書を購入したとも言えなくもなかっただけに、期待を裏切らぬ因果者度に大満足。いろんな所で根本敬によって掘り下げられているが、蛭子能収の毒針的味わいはまことに深いものがある。
『超高齢者の運転と生活』 阿相孫八(企業開発センター・1994年)
- 山形県内在住のお年寄り達のカーライフを『聞き取り調査』をもとに綴ったもの。写真多数。
- 高齢者の運転については、その在り方が巷間論じられるところであるが、本書はその先駆者的存在。
- 本書の素晴らしい点はいくつもあるが、先ず『聞き取り調査』であるがゆえ、お爺さん・お婆さんの、ある種達観したような淡々とした語り口がそのまま綴られているのがよい。
- 高血圧、ボケ、白内障・・・といった数々の身体的不安をもろともせず、「いつまで乗るのか」と問われれば、「乗れるうちは乗る。死ぬまで乗るつもりだ」と答える、お達者なお爺さん・お婆さんが満載。思わず、「お爺ちゃん、頑張って!」と心の中で声援を送りつつページをめくった瞬間、「この二月、自宅で転倒して骨折し、入院、八月に帰らぬ人となったそうだ」――合掌。序・破・急とでも言うんですか、えもいわれぬ、ゆる〜いレゲエのリズムに身を任せていると、突然背負い投げを喰らわされる・・・そんな感じです。
- 一人一人のお爺さん・お婆さんの免許取立て時代の思い出話から、主な職歴、病歴(これが特に充実)、安全運転の秘訣(「危ない夜間はできるだけ運転しないよう、ルームランプは取り外す」など、とても我々には思いつかないものあり)、一日の行動範囲(「病院へ薬受け取り」が頻出)等々、そこらへんの市販サブカルチャー本でもまず扱わないお達者情報の洪水だ。
- この本では、たまたま切り口が「運転」となっているが、こういう、何のバイアスも衒いもない素直な高齢者ワールドにはそうはお眼にかかれない。自費出版であることも手伝い、本書はかなりのレア・アイテムと言えよう。
- 文中に多数挿入された写真は、山形地方の豊かな自然が背景となっており、「人生=旅」とのダブルミーニングとなって、旅情を掻き立てられる。
『自殺者−現代日本の118人−』 若一光司(幻冬舎アウトロー文庫・1998年)
- 近衛文麿から伊丹十三まで、有名無名取り交ぜ、計118人の自殺者たちの背景・動機をひたすら記述。
- 昭和60年、極度の貧困から足立区の都営住宅の一室で自ら餓死を選んだ25歳と23歳の姉妹の話などは、昔ではなく我々と同時代の出来事だけに、「その頃自分がどうしていたか」なんてことを考え、しばしシンミリしてしまう。それと同時に、自分が当時住んでいたところと同じく「東京23区」に属していることは分かっていながらも、「足立区の都営住宅」というのがとてつもなく遠く感じてしまうのである。何処か遠いところの出来事を聞かされているように。
- また、小説家の原民喜(西荻窪と吉祥寺の間で線路に横たわり自殺)を紹介する一節では、妻を頼りに生きていた彼の姿が活写されており痛々しい。「原は、初対面の相手を訪れる際には必ず妻を伴って出かけた。先方に着くと、挨拶や用件の説明その他のすべてを妻が受け持ち、彼はその横で、ただ黙り込んでいるばかりだった。どうしても受け答えが必要なときには、先方と直接会話するのではなく、妻に向かってボソボソと小声で呟き、それを妻が先方に取り次ぐと言う有様だったのである」
- 同様に、田宮虎彦(マンション11階の自室から飛び降り。享年76歳)も、『私の友人杉浦明平は、女房の方が亭主よりも上だといったことがある。花森安治は、田宮は女房でもっているといった。二人とも偉い男たちだから、私は二人の言葉を信用したい。女に生まれて、私などと結婚していることを気の毒に思う』というのだ。そんな原も田宮も、妻に先立たれて後、パッタリと生への執着を失い、自殺へ向かうのである。田宮に至っては、「今まさに霊柩車に載せられようとする妻の棺にとりすがり、大声で泣き続けた」というくらいだ。
- こういう作家達の淋しい最期を見るにつけ、「男というのは、徹頭徹尾、孤独なものなのだなあ・・・」という感慨を新たにせずにはいられない。『・・・私は歩み去らう 今こそ消え去つて行きたいのだ 透明のなかに 永遠のかなたに』(原民喜の遺書より)
『人、旅に暮らす』 足立倫行(現代教養文庫・1993年)
- 職業柄、旅から旅への生活を送る人々のルポルタージュ。
- 競輪選手、観賞魚問屋、ラブホテル用特注ベッド業者、議員秘書、プロ野球スカウト・・・。
- 普段、なかなか知ることのできない職業の在り様を知ることができ、その上、「人生=旅」を痛感させられる好著。
- 滅多に自宅に帰れず、一年の大半が旅の空の下、という人生は、言い尽くせぬ苦労もあるだろう。けれど、朝から晩まで社内会議を渡り歩き、貴重な昼休みさえも社員食堂で慌しく済ませている・・・そんな日常の中で通勤電車の行き帰りにこんな本を読んでいると、「旅に暮らす人」が少しうらやましくなる。
『会社逃亡』 井通眞(講談社文庫・1991年)
- 東上線の奥のほうの支線からいくつも電車を乗り継いで川崎の工場へ通い、挙げ句に全てに疲れ、会社生活からも市民生活からも脱落していった男の物語。
- 家を買ったのを契機に、積年の疲れがどっと出て、会社に行きたくなくなって、食うのに困って近所の人から小銭を借りては踏み倒し、よその家に配達された牛乳を飲み、米やラーメンを万引きし、盗電などして何とか生き延びようとする・・・。
- いや〜、ダウナー系サラリーマンの極北ですなあ。そもそも、「東上線の奥のほう」ってのが、極北の趣きがあるもんねえ。勿論、作品中では地名・人名とも仮名になってるんだが、「奥のほう」のディテールが知りたくて、埼玉の図書館まで当時の新聞を読みに行っちゃったよ。それくらい、変に惹き込まれちゃうんだよなあ。でも、当時の新聞記事のひどいことにはびっくり。いや、「ひどい」ではなく、「非道い」って感じ。新聞記者にかかったら、ただの怠け者で図々しい男のお粗末な犯行、ってことで片付けられちゃうような事件だったんだろうけどね。
- 作者は、都市銀行を退職後、延々と妻に食わせてもらいながらあてもなく転職を繰り返した自分と万引き男の内面を重ね合わせ、見事な「小説」に仕立て上げているが、事件そのものの概略は事実とそう大きく異なっていないだろう。
- 実は本書は新刊が出た時に一度買って読んでるんだが、最近ふと読み直したくなったところ、引っ越しに紛れて捨てちゃってることが判明。書店に行ったが既に時遅しで、絶版になっていた。なので、図書館で探して借りてきました。前に読んだときは入社して日の浅いペーペーだったから、読後感も「ふ〜ん」程度だったが、今読むと、重いっすねえ。「労働とは何か」を作者が突き詰めるくだりなんか、すげえ共感しちゃった。
『ふうらい坊留学記』 ミッキー安川(中公文庫・1999年)
- 1950年代、18歳で単身渡米し、人種的偏見の厳しい「アメリカの田舎町」を転々、苦学しながらも恋愛、喧嘩など華々しい怒涛の留学記。
- 大学の授業についていけず、思いあまって現地の小学校へ転入、子ども達に混じってチイチイパッパからやり直すあたり、凄味あり。
- それにつけても、昔の留学記を読んでいつも思うのは、昔の日本人(男子)留学生は彼の地で「珍重」されてたんだなあ、ということ。小田実の「何でも見てやろう」にせよ本書にせよ、アメリカの女の子を取っかえ引っかえ、って感じだもんなあ。
- ま、アメリカの田舎町の「おっかなさ」が随所に活写されているが、こういう排他的な雰囲気は今も生きているんじゃないかと思う。いずれにせよ、アメリカの都市部(NY、LAなど)についてはいくらでも情報が手に入るが、テネシーだのオハイオだのの田舎ってどんなとこだかいまだによく分からないだけに、秘境探検みたいな感じで面白く読めた。
『欺してごめん』 安部譲二(クレスト社・1993年)
- 康芳夫、坂内ミノブ、玉内克己、フランク榊原、高松肇、という5人の怪物詐欺師達を活写している。
- 5人とも、安部譲二といささかの縁があり、身近な立場で彼らの最盛期から没落期までを記している。
- 筆者の『塀の中』シリーズ等のヒット作には、含羞の香りがそこはかとなく感じられ、それがどぎつくなりがちな話に柔らか味を与え、幻燈のような心地よい距離感をもたらしていたのだが、本書にはそうした心づくしがあまり感じられない。その代わり、生々しさとか臨場感とかは味わえる。なんつっても、詐欺師達本人の写真まで載っちゃってるからねえ・・・。
- この本を最初にパラパラめくって、まず眼に飛び込んできたのが、カラスを入れたデッカイ鳥かごを携え、派手な毛皮のコートを羽織って銀座を闊歩する康芳夫の写真。筆者も指摘しているが、この方のご面相がまた強力。一発でアッチの世界に持ってかれちゃった感じでした。どういう人なんだろ・・・てなわけで、すかさずインターネットの検索エンジンで「康芳夫」って入れてみましたが、ロクなのがなかった・・・。そういうことからみても、本書は怪人たちの「濃い」記録として貴重でありましょう。
『睡魔』 梁石日(幻冬舎・2001年)
- 在日朝鮮人の元タクシー運転手で著書が2冊ある、という主人公が、その危うさを判っていながらマルチ商法にのめり込んでいくさまを、執拗なまでの筆致で描き切った作品。
- マルチ商法の世界にうごめく人々の異常性を、非常に丁寧に表現しているが、その分だけどうしても話のテンポが遅いっていうのか、先が見えてる話を延々聞かされてるようなところがあり、読んでいてやや辛抱を強いられる。
- この筆者との出会いは、今から10年近く前でしょうか、「タクシー狂躁曲」(ちくま文庫)という一冊でしたな。在日朝鮮人の親族一同の寄り合いでの激越な口喧嘩とか、タクシー会社の頭のネジが飛んじゃってる運ちゃんの奇行ぶりとかの描写が、クサ味を帯びつつパワフルで、一発でアッチの世界に持ってかれちゃう引力があった。読了した後も、何度かパラパラ再読した覚えがあるのは、そういう引力があったからだろう。
- ところが、本作はそういう引力に欠けている。「油っこいしクサいしオエッてなっちゃうの判ってんだけど、また食べたくなっちゃったなあ」ってな感じの、再読へいざなうアクの強さが感じられなかった。もっとギトギトして欲しかったのだ、私は。
『火星の人類学者』 オリヴァー・サックス[吉田利子訳](ハヤカワ文庫・2001年)
- 自動車事故で色盲となり、全てが灰色のグラデーションにしか見えなくなったために一度は絶望するも、やがてその灰色の世界を芸術に高め新境地を切り開いた画家、チック的に絶え間なく奇矯な行動をせずにはいられない持病がありながら、手術になると確かな腕を発揮する外科医、自閉症のため人心の機微を解せぬ一方で、動物心理学者として家畜が殺される時の苦しみを軽減するための研究の第一人者となった大学助教授・・・。
- 脳神経科医である著者は、脳に何らかの病を持つ人たちの常人ならざる活躍ぶりを描くことで、人間の脳が持つ果てない不可思議さを浮き彫りにしていく。
- この手の本は、研究者である著者にとっては「冷徹な実地報告」、読者にとっては「のぞき趣味の好材料」に堕してしまう恐れがある。しかし本書では、描かれる世界の奇妙な味の背後に、著者が登場人物に注ぐ温かい視線を反映した「人間讃歌」的色彩が感じられ、読後感は爽やかである。
『ぼくらはみんな生きている』 坪倉優介(幻冬舎・2001年)
- 大学1年の時にバイク事故で一切の記憶を失い、人の顔や名前といった事柄だけでなく、例えば「靴紐を結ぶとなぜ靴がぴったり足にフィットするのか」とか、「人間にはなぜ背の高いのや低いのや細いのや太いのがいるのか」とかいった「モノの道理」みたいなものまで分からなくなってしまった青年の手記。
- 板書というものが何だか分からないからノートが取れない、英語というものもきれいさっぱり忘れているから語学の宿題は母親が代行、といった状態から大学をやり直し、食べ物が腐るとはどういうことかさえ知らないのに家を出て自炊にトライする・・・。母親や父親も、育児という険しい山道の9合目から登山口まで滑落した後、そこから頂上までまた這い上がったわけである。想像しただけで倒れてしまいそうな壮大な作業だが、家族一丸となってやり遂げた様子が活写されている。
- かくして、青年はヤンキー的に半分グレかけていた過去から脱却でき、大人しくて真面目な染物職人になった。いつか記憶が何かの拍子で戻ってしまうようなことがあったらそれは悲劇だろうが、そんなリスクの代わりに、真新しく輝く人生を手に入れたのである。
- 私は以前から、映画やドラマに「記憶喪失」が出てくるたびに、奇妙に心惹かれてきた。失うものは大きいだろうが、普通に生きていれば絶対に捨てられない、例えば苦すぎる思い出とか、ゼロクリアしたい人間関係のしがらみとか、そういう荷物をあっさり処分できるってところは、一寸したメリットだよな・・・なんて不埒な考えを抱いていたのだ。本書を読んで、そういうメリットを得るためにはとてつもないリスクに身をさらす必要があり、魅力的だの何だのって口が裂けても言えないもんだ、ってことだけは、しみじみと理解した。
『あきらめたから、生きられた』 武智三繁(小学館・2001年)
- 小さな漁船で操業中にエンジンが故障、太平洋の黒潮に流されて完全に遭難し、水や食料が欠乏した上台風にまで直撃されたが37日間の漂流生活に耐え、奇跡的に無事生還した船長の物語。
- エンジンが止まり、食べ物がなくなり、水もなくなり・・・と、物質的にはどんどん追い詰められていくのだが、彼の精神状態はそれほど追い詰められない。太平洋上で台風に巻き込まれ、暗闇の中で「見たこともない」高さの波が目前に迫ってくるのを見ながらも、パニックに決して陥らないのだ。
- 「何もできないんだったら、力抜いてた方がいい」と言って自然の力に従い、「死ぬまでは、生きてみよう」と言って自殺を思いとどまり、「もうこれは死ぬかも知れない、でもこれ、できることだから。できんことはないから、やっとこう」と言って消耗し尽くした体力を少しずつ使って船を立て直す・・・。「自分は絶対に助かるんだ」というような思い込みや意気込みがなかったゆえに、パニックにも陥らず人事を尽くして天命を待てたのだろう。
- この遭難事件はまだ記憶に新しい出来事であり、「え、もう本になったの?」という感じであるが、事件報道時に真っ先に私が思い出したのは、『自殺者−現代日本の118人−』(若一光司)で読んだ、小さな漁船で千葉・白浜から三宅島まで帰ろうとして黒潮に流され50時間漂流、銚子沖200キロの海上で捜索機に発見されるも、そのわずか20分前に船上で首吊り自殺してしまっていたという、木村さんという名の漁師の話だ。この話の末尾は、「ある捜索関係者は、『孤独に耐えられなかったのではないか』と想像したが、闇夜の海を荒波にもまれて漂いながら、木村さんは常人には思いもつかない『何か』を見たのかもしれない」というもの。このフレーズが妙に心に残って離れないでいたところへ武智さんの生還報道だったんで、「武智さんと木村さんを分けたものは何だったのか・・・」なんてずっと考えていたわけ。
- それでこの本の出版を知り、早速読んでみたのであるが、これは脱力系の強さだな。この手の強さを、今の日本の経済人全体が持つといいかも。「イタリアやポルトガルより格付が下でもいいじゃないか。でもやれることはやっとこう」みたいなね。そうじゃないと、ダメだったときの反動が怖いよ。
『どうしやうもない私−−わが山頭火伝』 岩川隆(講談社・1989年)
- 托鉢行脚の俳人・種田山頭火と同郷である作者が、「歩行禅と句作に生涯を賭けた『現代の芭蕉』」という一般的なイメージから敢えて離れ、「人に迷惑をかけて、借金もして、だらしないのんべえ」という生身の山頭火を描いた評伝。
- 確かに彼は、まともな社会生活を営めない、自分で労働してカネを稼ぐことの出来ない、相当にだらしない酔っ払いである。意思をもって世を捨てたのではなく、逃亡者でしかないのだ。逃亡者なら逃亡者らしく隠遁に徹すればいいのに、じきに人里が恋しくなり、友人や妻子のもとへカネの無心に幾度となく現れたりしている。疲れれば汽車に乗り、ムラムラ来れば女郎屋にも行くという、相当インチキな行乞ぶりである。これらの費用は勿論、托鉢によるものか友人や妻子への無心によるものなのである。
- しかし作者の筆は、こういった山頭火のだらしなさをこれでもかこれでもかと挙げ続けるものの、その視線は決して冷たくはない。それは、山頭火のこんな徹底した現実逃避ぶりやだらしなさ加減というものが、いかにも人間臭く、また我々(真っ当な生活を営もうと努力している)フツーの社会人の心の奥底にくすぶり続けているはずのものだからであろう。