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探偵作家・雑誌・団体・賞名辞典-こ-


コール夫妻,G・D・H(George_Douglas_Howard_Cole)

夫のジョージは1889年(明22)、イギリスのロンドン生まれ。オックスフォード大学教授。経済学者として「社会主義経済学」「イギリス労働運動史」などの著作がある。
夫はオックスフォード大学社会主義協会会長、フェビアン調査局名誉書記長を歴任。また、ギルド社会主義運動に関わったが、イギリス共産党結成とともに下火となったので、1925年(大14)に学究生活に入った。
1923年(大12)、病床にあって暇を持て余し、夫が単独で探偵小説「ブルックリン家の惨事」を発表。
1939年(昭14)、反ファシズム機関誌「ファクト」を発刊。
1939年(昭14)、フェビアン調査局はフェビアン協会と合併し、理事長に就任。
妻のマーガレットは1893年(明26)、ケンブリッジ生まれ。結婚前の名前はマーガレット・イサベル・ポストゲート。労働研究所やフェビアン協会でも働き、国際ギルド連盟にも関係していた。レイモンド・ポストゲイトは弟。
1916年(大5)に結婚。
1925年(大14)の「百万長者の死」から夫妻名で発表された。1950年(昭25)、吉田松太郎によって訳されている。
夫がアウトラインとつくり、妻が執筆するといわれている。
1959年(昭34)、夫ジョージ、死去。
1980年(昭55)、妻マーガレット、死去。


小泉喜美子(こいずみ・きみこ)

本名杉山喜美子。1934年(昭9)、東京築地生まれ。
1959年(昭34)、「エラリー・クイーンズ・ミステリ・マガジン」の第一回コンテストに杉山季美子名義の「我が盲目の君」が準佳作となる。
1959年(昭34)、生島治郎と結婚。
1962年(昭37)、津田玲子名義で「交通新聞」に「殺人はお好き?」を発表。ほかに津田玲子名義では少女小説を発表している。
1963年(昭38)に第一回オール読物推理小説新人賞の候補作になった「弁護側の証人」を高木彬光の斡旋で刊行。
続いて第二長編として「爆薬とシャンペン」を刊行するはずだったが、結婚生活を優先するために原稿は破棄されたという。
1972年(昭47)、生島治郎と離婚。
1975年(昭50)に「小説クラブ増刊」に発表した「冷たいのがお好き」は日本推理作家協会の「推理小説代表作選集 推理小説年鑑 1976年版」に収録される。
1976年(昭51)に「月刊小説」に発表した「復讐は彼女に」は日本推理作家協会の「推理小説代表作選集 推理小説年鑑 1977年版」に収録される。
1979年(昭54)、「痛み」が第32回日本推理作家協会賞短編部門の候補となる。
1980年(昭55)に「小説推理」に発表した「かたみ」が第33回日本推理作家協会賞短編部門の候補となる。
1984年(昭59)に「別冊文藝春秋」に発表した「紫陽花婦人」が1985年(昭60)に第38回日本推理作家協会賞短編部門の候補となる。同時に日本推理作家協会の「推理小説代表作選集 推理小説年鑑 1985年版」に収録される。
1985年(昭60)に発表した「友を選ばば」は日本文藝家協会の「ベスト小説ランド 1986」に収録される。
1985年(昭60)に「婦人公論」に発表した「洋服箪笥の奥の暗闇」は日本推理作家協会の「推理小説代表作選集 推理小説年鑑 1986年版」に収録される。
内藤陳と同棲していたことがある。
1985年(昭60)、酔っ払って酒場の階段から転落したのがきっかけとなり、外傷性硬膜下血腫のため死去。

日本長編推理小説ベスト99/


甲賀三郎(こうが・さぶろう)

本名春田能為。1893年(明26)、滋賀県蒲生郡日野町生まれ。父は教育家井崎為輔だったが、大学卒業後、婿養子に入る。ペンネームは郷土の勇士、甲賀三郎兼家からつけられた。東京帝大工学部卒。農商務省臨時窒素研究所で技師として勤めていた当時は大下宇陀児と同僚だった。また、帝大出身の技術者で組織する工人倶楽部の委員を務めており、当時書記長を務めていた江戸川乱歩とは顔見知りだった。
1923年(大12)、「真珠塔の秘密」が「新趣味」の懸賞募集に一等賞当選。長谷川天渓の選だという。
1924年(大13)、「琥珀のパイプ」を「新青年」に発表し、江戸川乱歩のライバルと目された。同時にこの作品は探偵趣味の会の「創作探偵小説集 第一号(1925年版)」に収録される。
1926年(大15)、「悪戯」を「新青年」に発表し、探偵趣味の会の「創作探偵小説集 第ニ号(1926年版)」に収録される。
1927年(昭2)、「苦楽」に発表した「拾った和銅開珍」は探偵趣味の会の「創作探偵小説集 第三号(1927年版)」に収録される。
1927年(昭2)、「支倉事件」を「読売新聞」に発表。
1928年(昭3)、「講談倶楽部」に発表した「樟脳の煙」は探偵趣味の会の「創作探偵小説集 第四号(1928年版)」に収録される。
1931年(昭6)、「焦げた聖書」を「新青年」に発表。
1932年(昭7)、「姿なき怪盗」を刊行。
1933年(昭8)、「体温計殺人事件」を「新青年」に発表。
1933年(昭8)、文芸家協会理事就任。
1934年(昭9)、「誰が裁いたか」を「ぷろふいる」に発表。
1936年(昭11)、「四次元の断面」を「新青年」に発表。
1942年(昭17)、日本文学報国会事務局総務部長就任。
1944年(昭19)、日本少国民文化協会事務局長就任。
理化学的知識を生かしたトリックを用いた本格派。その反面、通俗小説を数多く執筆した流行作家でもあった。論理性と謎解きを主軸とした本格派を提唱し、1935年(昭10)の「探偵小説講話」をきっかけにした「ぷろふいる」での木々高太郎との論争が有名。ヴァン・ダインを探偵小説の最上と考え、探偵小説を本格物に限定し、変格物を探偵小説から切り離してショート・ストーリィと呼ぶことを提唱したが、根付かなかった。次第に他の探偵小説作家と対立し、長谷川伸土師清二らと親交を結ぶようになった。本格・変格という言葉を生みの親。
1945年(昭20)、日本少国民文化協会事務局長としての業務で九州に出張し、帰路、急性肺炎に罹り、岡山で下車したが死去。

幻影城掲載誌:2/4/7/13/16/24/29/36/別冊幻影城掲載誌:16/作家が語る探偵小説観/日本長編推理小説ベスト99/


高城高(こうじょう・こう)

本名乳井洋一。1935年(昭10)、函館市生まれ。現在はベンチャー企業の社長。
1955年(昭30)、「X橋付近」が「宝石」の一等入選。
1958年(昭33)に「宝石」に発表した「淋しい草原に」が1959年(昭34)、第12回日本探偵作家クラブ賞の候補となる。同時に日本探偵作家クラブの「探偵小説年鑑1959年度版」に収録される。

幻影城掲載誌:51/


河野典生(こうの・てんせい)

1935年(昭10)、高知市生まれ。少年時代に詩誌「蘇鉄」同人となる。明治大学仏文科中退。明治大学学内誌「駿台文学」復刊に参画。
bb1950年(昭25)、薬品結晶標本作成法の研究により、高知県科学研究コンクール中学の部第一位「寺田寅彦賞」受賞。
1956年(昭31)、「三田文学」に戯曲「墜ちた鷹」を発表。
1957年(昭32)、詩劇団「鳥」を結成。
1958年(昭33)、多岐川恭が代表となり、樹下太郎佐野洋竹村直伸星新一水上勉結城昌治とともに探偵作家団体の「他殺クラブ」を結成。
大藪春彦の影響を受け、1959年(昭34)、宝石社、日本テレビ、日野自動車が主催し、テレビ脚本を募集した「夜のプリズム」賞で、「ゴウイング・マイウェイ」が佳作一席入選し、「宝石」に掲載。
1963年(昭38)に発表した「青い群」は日本推理作家協会の「推理小説ベスト24 1964年版」に収録される。
1963年(昭38)、「宝石」に掲載されたハードボイルド「殺意という名の家畜」が、1964年(昭39)の第17回日本推理作家協会賞を受賞。
1969年(昭44)に刊行した「他人の城」が、第62回直木賞候補となる。
1971年(昭46)に「オール讀物」に発表した「殺しに行く」は日本推理作家協会の「推理小説代表作選集 推理小説年鑑 1972年版」に収録される。
1972年(昭47)に「別冊小説現代」に発表した「生きながらブルースに葬られ」は日本文藝家協会の「現代の小説 1972年度前期代表作」に収録される。
1973年(昭48)に「小説サンデー毎日」に発表した「少国民邂逅」は日本文藝家協会の「現代の小説 1973年度前期代表作」に収録される。
1973年(昭48)に刊行した「ペインティング・ナイフの群像」が、1974年(昭49)に第71回直木賞候補となる。
1974年(昭49)に「小説新潮」に発表した「街角」は日本文藝家協会の「現代の小説 1974年度後期代表作」に収録される。
1975年(昭50)に刊行した「明日こそ鳥は羽ばたく」は、1975年(昭50)に第二回角川小説賞を受賞。。
1979年(昭54)に「幻影城」に連載した「アガサ・クリスティ殺人事件」は、休刊のため中絶していたが、1983年(昭58)に刊行され、「週刊文春」の83年「傑作ミステリーベスト10」の8位に選ばれる。

幻影城掲載誌:32/47/50/51/作家が語る探偵小説観/日本長編推理小説ベスト99/


小酒井望(こさかい・のぞむ)

1918年(大7)生まれ。小酒井不木の長男。順天堂大学教授。
1952年(昭27)、「日本探偵作家クラブ会報」に「不木のこと」を執筆。

別冊幻影城掲載誌:16/


小酒井不木(こさかい・ふぼく)

本名小酒井光次。1890年(明23)、愛知県蟹江町生まれ。別名鳥井零水。
東京帝大医学部卒。医学博士。東北帝大教授を命じられたが、喀血し、退職。
1915年(大4)、本名にて「生命神秘論」を刊行。
最初は医学雑誌に英米文学に関する紹介をしていたが、1921年(大10)に「東京日日新聞」に連載した随筆「学者気質」のなかで探偵小説を論じたのがきっかけとなり、1922年(大11)、森下雨村の勧めにより随筆「科学的研究と探偵小説」や「毒及び毒殺の研究」を「新青年」に寄稿。
1923年(大12)には、江戸川乱歩の「二銭銅貨」を激賞し、乱歩デビューの後押しをした。また、1925年(大14)には江戸川乱歩の「心理試験」をもって乱歩が職業作家となる助言をおこなった。
創作は江戸川乱歩の薦めにより、1925年(大14)、「画家の罪?」を「苦楽」に発表。
1925年(大14)、大衆文芸の振興を目的とした「二十一日会」同人となる。同人には中心となった白井喬司のほか、江戸川乱歩、長谷川伸土師清二国枝史郎正木不如丘がいた。
1925年(大14)、「女性」に発表した「呪はれの家」は探偵趣味の会の「創作探偵小説集 第一号(1925年版)」に収録される。
1926年(大15)、「人工心臓」(大衆文芸)、「恋愛曲線」(新青年)に発表。
1926年(大15)に「新青年」に発表した「印象」は探偵趣味の会の「創作探偵小説集 第ニ号(1926年版)」に収録される。
1927年(昭2)に「新青年」に発表した「死體蝋燭」は探偵趣味の会の「創作探偵小説集 第三号(1927年版)」に収録される。
1927年(昭2)には土師清二、長谷川伸、国枝史郎、江戸川乱歩とともに「耽綺社」を設立し、大衆文学の合作を試みようとした。
1927年(昭2)、「疑問の黒枠」を「新青年」に発表。
1928年(昭3)に「新青年」に発表した「見得ぬ顔」は探偵趣味の会の「創作探偵小説集 第四号(1928年版)」に収録される。
1929年(昭4)、「闘争」を「新青年」に発表。
ほか鳥井零水名義でドゥーゼなど翻訳多数。評論にも大きな足跡を残し、すぐれた探偵小説の理論家、実作者で、森下雨村とならぶ創作探偵小説の育ての親である。岡戸武平を助手として使っていた。
1929年(昭4)、急性肺炎にて死去。

幻影城掲載誌:1/7/32/42/43/別冊幻影城掲載誌:16/日本長編推理小説ベスト99/

小酒井不木に関するサイト:「奈落の井戸」


小鷹信光(こだか・のぶみつ)

本名中島信也。1936年(昭11)、岐阜県生まれ。早稲田大学卒。ワセダ・ミステリ・クラブ出身。パロディー・ギャング所属。
1975年(昭50)、ハードボイルド評論「パパイラスの舟」を発表するなど、ハードボイルド紹介の功労者。この作品は1976年(昭51)に第29回日本推理作家協会賞評論賞の候補となる。
1979年(昭54)、小説「探偵物語」を刊行し、のちに松田優作主演でテレビドラマ化された。
1981年(昭56)、「ハードボイルド以前」が第34回日本推理作家協会賞評論その他部門の候補となる。
1986年(昭61)、「アメリカ語を愛した男たち」が第39回日本推理作家協会賞評論その他部門の候補となる。

幻影城掲載誌:51/


児玉進(こだま・すすむ)

1926年(大15)、東京生まれ。慶應義塾大学経済学部卒。
1953年(昭28)、東宝に助監督として入社し、山本嘉次郎に師事。
1965年(昭40)、テレビ映画「青春とはなんだ!」で監督に昇進。
1975年(昭50)、泡坂妻夫の「乱れからくり」を監督。

幻影城掲載誌:52/


後藤安彦(ごとう・やすひこ)

本名二日市安。1929年(昭4)生まれ。歌人。翻訳家。
1962年(昭37)、仁木悦子と結婚。

別冊幻影城掲載誌:6/


小林久三 (こばやし・きゅうぞう)

1935年(昭10)、茨城県古河市生まれ。
東北大学文学部卒。松竹勤務。木下恵介監督の元、助監督を務め、シナリオも執筆。花登筐と合作もおこなった。
推理界」の評論募集に「誰がジェーンを殺したか?」が入選。
1970年(昭45)、「零号試写室」を「推理界」に発表。
1971年(昭46)、「フィルムの葬列」が第17回江戸川乱歩賞候補作となる。
1972年(昭47)、冬木鋭介名義で、「腐食色彩」で第三回サンデー毎日新人賞を受賞。
1974年(昭49)、「暗黒告知」で、第20回江戸川乱歩賞受賞。同時に1974年(昭49)に第72回直木賞候補となる。
1975年(昭50)に「小説サンデー毎日」に発表した「赤い落差」は日本推理作家協会の「推理小説代表作選集 推理小説年鑑 1976年版」に収録される。また、1976年(昭51)に第29回日本推理作家協会賞短編賞の候補となる。
1976年(昭51)、「日蝕の檻」を「赤旗」に発表。
1976年(昭51)に「小説新潮」に発表した「海軍某重大事件」が1977年(昭52)に第30回日本推理作家協会賞短編賞候補作となる。同時に日本推理作家協会の「推理小説代表作選集 推理小説年鑑 1977年版」に収録される。
1977年(昭52)に「野性時代」に発表した「あばかれた夜」は日本推理作家協会の「推理小説代表作選集 推理小説年鑑 1978年版」に収録される。
1978年(昭53)、「皇帝のいない八月」を「小説現代」に発表。
1978年(昭53)に「別冊小説新潮秋季号」に発表した「王将の睡り」は日本推理作家協会の「推理小説代表作選集 推理小説年鑑 1979年版」に収録される。
1978年(昭53)に「小説新潮」に発表した「雪の花火」が1979年(昭54)に第32回日本推理作家協会賞短編部門の候補となる。
1979年(昭54)に「小説新潮」に発表した「走る無人霊柩車」は日本推理作家協会の「推理小説代表作選集 推理小説年鑑 1980年版」に収録される。
1980年(昭55)に「別冊小説宝石」に発表した「胡桃の夏」は日本推理作家協会の「推理小説代表作選集 推理小説年鑑 1981年版」に収録される。
1981年(昭56)に「野性時代」に発表した「父と子の炎」で、角川小説賞受賞。
1980年(昭55)に刊行した「むくろ草紙」は、当初は「幻影城ノベルス」として「骸草紙」と題して刊行されるはずだった。
1980年(昭55)に「野性時代」に発表した「投書の女」が1981年(昭56)に第34回日本推理作家協会賞短編部門の候補となる。
1981年(昭56)に「別冊小説宝石」に発表した「フィルムの死角」が、1982年(昭57)に第35回日本推理作家協会賞短編部門の候補となる。
1983年(昭58)に「オール讀物」に発表した「残酷な写真」が1984年(昭59)に第37回日本推理作家協会賞短編部門の候補となる。同時に日本推理作家協会の「推理小説代表作選集 推理小説年鑑 1984年版」に収録される。
1984年(昭59)に「野性時代」に発表した「傾いた橋」が、1984年(昭59)に第91回直木賞候補になる。
1990年(平2)に「小説宝石」に発表した「白い雨の凶器」が1991年(平3)に第44回日本推理作家協会賞短編部門の候補となる。同時に日本推理作家協会の「推理小説代表作選集 推理小説年鑑 1991年版」に収録される。
犯罪研究家としても知られ、1985年(昭60)には三浦和義事件の取材に取り組む。

幻影城掲載誌:7/13/18/23/30/日本長編推理小説ベスト99/幻影城ノベルス/


小林信彦 (こばやし・のぶひこ)

1932年(昭7)、東京生まれ。早稲田大学卒。小林泰彦は実弟。遠い親戚に山田風太郎浜尾四郎、古川ロッパがいる。
1955年(昭30)、有馬晴夫名義で「近代文学」に「白い歯車」を発表。
1958年(昭33)、宝石社の顧問になる。
1959年(昭34)から、類十兵衛、スコット貝谷、中原弓彦名義で「宝石」に「みすてりい・ガイド」を連載。
1959年(昭34)、「消えた動機」を「宝石」に発表。この作品は三木洋名義でテレビドラマ化および、映画化される。映画タイトルは山田洋次監督の「九ちゃんのでっかい夢」。
1959年(昭34)、中原弓彦の名で「ヒッチコック・マガジン」の編集長を務める。
1963年(昭38)、宝石社を退社。
1964年(昭39)、「潮」に中原弓彦名義で掲載した「衰亡記」が1964年(昭39)に第52回直木賞候補となる。
1972年(昭47)に中原弓彦名義で発表した評論集「日本の喜劇人」で、1973年(昭47)に芸術選奨新人賞を受賞。
1975年(昭50)に発表した「丘の一族」が1975年(昭50)の第74回芥川賞候補となる。
1976年(昭51)に発表した「家の旗」が1976年(昭51)の第76回芥川賞候補となる。
1976年(昭51)、桂三枝がギャグ盗用をおこなったとして「オヨヨ騒動」を起こす。
1977年(昭52)に発表した「八月の視野」が1977年(昭52)の第77回芥川賞候補となる。
1978年(昭53)に発表した「唐獅子株式会社」が、第79回直木賞候補となる。
1978年(昭53)に「オール讀物」に発表した 「みずすましの街」が、1978年(昭53)に第80回直木賞候補となる。
1978年(昭53)、「キネマ旬報」に発表した「小林信彦のコラム」が読者賞受賞。
1981年(昭56)にも「キネマ旬報」に発表した「小林信彦のコラム」が読者賞受賞。
1988年(昭63)に発表した「悲しい色やねん」は日本文藝家協会の「現代の小説 1989」に収録される。


小舟勝二(こぶね・かつじ)

経歴不明。別名小舟生。
1927年(昭2)、「新青年」に発表した「昇降機」にてデビュー。この作品は探偵趣味の会の「創作探偵小説集 第三号(1927年版)」に収録される。
1931年(昭6)、死去。

幻影城掲載誌:26/


小峰元(こみね・はじめ)

本名広岡澄夫。1921年(大10)、神戸生まれ。大阪外国語学校スペイン語科卒。
1948年(昭23)、カストリ雑誌に「仮面の花嫁」を発表。
1973年(昭48)、「アルキメデスは手を汚さない」で第19回江戸川乱歩賞受賞。
若い世代の動向を描写し、一貫して長編で作品を発表。
1994年(平6)、リンパ種のため死去。

日本長編推理小説ベスト99/


コリンズ,ウイルキー(William_Wilkie_Collins)

1824年(文政7)、イギリスのロンドン生まれ。父は王立学士院会員で風景画家のウィリアム・コリンズ。弟のチャールズ・コリンズも画家で、ディケンズの娘と結婚している。
1843年(天保14)、「イラストレイテッド・マガジン」に「The Last Stagecoachman」という詩を発表。 1848年(嘉永1)、父の死にまつわる伝記「父の想い出」を刊行。
1850年(嘉永3)、歴史小説「アントニナ」が小説としての処女作。
1851年(嘉永4)からディケンズの主宰する素人劇団に所属し、企画立案や俳優として活躍。その一方で弁護士の資格を得る。 1853年(嘉永6)からはディケンズが発行していた週刊文芸雑誌「Household_Words」の寄稿家、編集スタッフとなった。
1860年(万延1)に「オール・ザ・イヤー・ラウンド」に発表した「白衣の女」はベストセラーとなり、1891年(明24)には「白衣婦人」のタイトルで原抱一庵が訳す。
1868年(明1)、リューマチに苦しめられながら、イギリスにおける最初の長編探偵小説である「月長石」を「All_The_Year_Round」に掲載。T・S・エリオットは「もっとも早くに書かれた、もっとも良い、もっとも優れた探偵小説」と激賞している。
しかし、晩年は忘れ去られ、1889年(明22)、痛風と阿片吸引のため死去。
1889年(明22)、省庵居士名義で原抱一庵によって「報知新聞」に「月珠」として訳されるが未刊。また、1892年(明25)に黒岩涙香が「我不知」として「都新聞」「万朝報」に訳している。1934年には「ミステリ・リーグ」の読者投票で第四位を獲得。江戸川乱歩は古典のベスト2に挙げた。


権田萬治(ごんだ・まんじ)

1936年(昭11)、東京生まれ。東京外国語大学フランス語科卒。島崎博の日本における身元引受人。
1960年(昭35)、日本で最初の探偵小説の評論新人賞である「宝石」の第一回宝石賞評論募集に「感傷の効用-レイモンド・チャンドラー論-」が佳作入選。
1962年(昭37)、島崎博、二上洋一らと「みすてりい」創刊。
1975年(昭50)に「幻影城」にて発表した「日本探偵作家論」で、1976年(昭51)、第29回日本推理作家協会賞評論その他部門受賞。
2000年(平12)に新保博久と共同監修にて刊行した「日本ミステリー事典」で、2001年(平13)、第1回本格ミステリ大賞の評論研究部門を受賞。
2004年(平16)、ミステリー文学資料館館長に就任。

幻影城掲載誌:1/2/3/4/5/6/7/8/9/10/11/12/13/14/15/18/19/20/27/30/38/40/
41/42/43/44/45/46/47/48/49/50/51/53/54/別冊幻影城掲載誌:2/3/4/8/9/12/作家が語る探偵小説観/日本長編推理小説ベスト99/幻影城評論研究叢書/


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